成長するために捨てる

2024年6月23日主日礼拝「成長するために捨てる」

Ⅰペテロ2:1~8佐々木俊一牧師

■今日から、ペテロの手紙第一の2章に入りたいと思います。前回、「私たちが信じる福音とは」というタイトルでお話をしました。福音を信じる者はすでに、神様の治める御国のメンバーです。神様の治める御国のメンバーであると言うことは、神様の言われることは良い事であると言うことに同意し、神様の言われることに喜んで従いたい、と少なくともそう願っている者であることは確かです。「少なくとも」、と言うのは、そう願っていても、私たちにはまだ古い性質が残っていて、ついその古い性質に従ってしまうことがあるからです。そのことに気づかされた時には、その罪を認めて、「神様ごめんなさい」と言って、再び正しい方に向かって歩き始めることを決心しましょう。私たちには、そういうことが許されています。

 福音を信じる者は、キリストによって新しく生まれた者です。キリストによって新しく生まれた者は、心の一新によって自分を変えるように命じられています。ローマ12:2にその事が書かれています。それと同様のことが、Ⅰペテロ2章の1節~3節でも言われています。見て行きましょう。

■1節 新しく生まれた者が捨てなければならないことがいくつか書かれています。すべての悪意、すべての偽り、すべての偽善、すべての妬み、すべての悪口です。これらは、罪の範疇に属するものばかりです。私たちはすでに、悪意も、偽りも、偽善も、妬みも、悪口も、これらのすべてのものは、私たちの内にはありません、ともしかしたら思っているかもしれません。でも、罪はそんなに甘くはありません。罪は払っても、払っても、しつこいくらいにまつわりついてきます。

 ペテロは、このようなことを誰に向かって言っているのでしょうか。「ですからあなたがたは」と言っています。「あなたがた」とは誰のことでしょうか。それは、1章の初めにありました。「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たち」、のことです。つまり、イエス・キリストを信じて聖霊を受け、それによって聖別された、選ばれた人々に向かって、「ですから、あなたがたは・・・捨てなさい」と言っているのです。選ばれた人々であるにもかかわらずです。「すべての悪意、すべての偽り、すべての偽善、すべての妬み、すべての悪口を捨てなさい。」と彼らに言われたのです。これらのことを捨てることによって、クリスチャンとしての成長が可能になるからです。ですから、私たちも、このペテロの忠告に耳を傾けたいと思います。

■1節に、「捨てて」とありますが、この言葉には「わきに置いて」という意味があります。捨てるということは、わきに置くと言うことです。「捨てて」というと、とても強いことばのように感じますが、「わきに置いて」というと、そんなに強いことばのようには感じません。

 私たちは、悪意を捨てなければなりません。悪意とは何でしょうか。それは、すべての悪い事の総称です。また、人を傷つける悪い思いや考えです。悪意は言葉や行動となって人に不安や心配や恐れや怒りを与えます。そして、人間関係や交わりにダメージを与えます。悪意は習慣化するものなので、放って置くと、ますますその度合いが増していきます。ですが、キリストに従う私たちは、それらのものからの影響が日々弱められつつあります。なぜならば、私たちの内におられる聖霊がそのような悪意に気づかせてくださるからです。そして、聖霊は、私たちがそれらをわきに置いて関わらないように促してくださいます。その時に私たちがとるべき態度は、素直に聖霊の導きに従うことです。

 次に捨てなければならないことは、すべての偽りです。ずるいこと、だますこと、ごまかすこと、などの意味が含まれます。私たちは、そういった偽りへの誘惑に注意しなければなりません。また、聖霊によって示された時には、その思いを捨てなければなりません。

 次は、偽善です。うわべを繕ってする良い行ないです。偽善と言うと、思い起こすのがパリサイ人や律法学者です。イエス様はよく、彼らに向かって偽善者どもよ、と言って非難していました。マタイ23章を見るとそのことがよくわかります。23章では、イエス様は「偽善者どもよ」、と6回か7回言っています。パリサイ人や律法学者がしていた行ないは、すべて人に見せるためでした。彼らは口で言うだけで、実行しない、ともイエス様は言っています。彼らの良い行ないは、人々の歓心を得るためであり、その目的は彼ら自身の利得にありました。私たちは人の歓心や利得のためではなく、まず神様を喜ばせるために真心から良い行ないをしたいと思います。

 次は、妬みです。妬みとは、他人の優れている部分を羨んで、その人を憎いと思うことです。嫉みとは、他人が自分より優れているため、劣等感を持つことです。人を見て羨ましい、と思うだけなら良いのですが、それによって、その人に対して憎しみを持ったりすると、それは妬みになります。また、憎しみを持たなくても、自分は何て駄目なんだろう、とか、自分はなんて不幸なんだう、と思うのは、妬みではありませんが、嫉みになります。妬みや嫉みを持ち続けるならば、結果、人間関係や交わりに大きなダメージを与えることは、旧約聖書の多くの出来事が証明しています。

 子どもはよく、そのような感情にさらされることがあります。親や大人は、できる限り、公平な態度をもって子どもたちに対応する必要があるでしょう。しかし、どんなに気をつけたとしても、そのような感情を経験しないで育つことはありません。だからこそ、子どもたちには、神様が一人一人のことをどんなに大切に思っているのか、また、どんなに愛しているのかをしっかりと教え、自信を持って生きて行けるように導きたいものです。妬みや嫉みの感情が習慣化しないように、子どもたちを導いて行けるように心がけたいと思います。

 そして、悪口です。悪口には、下に見る、とか、軽蔑する、と言う意味を含んでいます。それが事実であろうと、作り話や噂話であろうと、侮蔑や軽蔑の感情を込めて互いの間で話題とするならば、その人へのダメージにとどまらず、その集まり全体へのダメージを生じさせることになってしまいます。そうなる前に、適切な対応が必要なのだと思います。

■ここで、ちょっと、イエス様に目を向けてみたいと思います。イエス様は、大勢の前で、パリサイ人や律法学者をかなり厳しいことばで非難していました。彼らを偽善者、犬や豚、蛇やまむしの子孫と呼んでいます。イエス様にはお見通しでした。彼らは、外見はきれいに飾るけれども、心の中は強欲と放縦で満ちていたのです。実際に、彼らは、イエス様とイエス様のことばに敵対し、人々が神の御国に入ろうとするのを邪魔していました。ですから、イエス様が彼らのことをそう呼んだのは、当然のことであると言えるのです。さらに、イエス様は神なるお方ですから、裁く立場に値するお方でもあるのです。イエス様が彼らについて言っていたことは、悪口ではなく、神の目から見た彼らの真実です。イエス様は、彼らの真実を語り、彼らにだまされないように、人々に注意喚起を行ったのです。

 ここで、私たちを悩ませることがあります。イエス様は、パリサイ人や律法学者のことをさばいていました。けれども、マタイ7:1では、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」とイエス様は言っているのです。なぜならば、私たちがさばくとおりに、私たちもさばかれ、私たちが量るとおりに、私たちも量られるからです。もしも、私たちが人をさばきがちな傾向にあるなら、私たちはその傾向を改めなければなりません。けれども、私たちの間に、実際に、つまずきを与える問題があって、それが私たちの関係や交わりに悪い影響を与えているとしたら、私たちがそれを何とかして取り除きたいと思うのは当然です。それを取り除くためには、もちろん、正しいやり方でやる必要があります。もしも、私たちが、いつまでも、陰でそのつまずきについていろいろと言い合っているだけなら、それはいつの間にか悪口になってしまうでしょう。悪口は、人も交わりも駄目にしてしまいます。そのような時、私たちはまず、祈ることが最善なのだと思います。そして、自分の目の中の梁を取り除いたうえで、その問題に対処したいと思います。問題に正面から向き合うことはとても勇気のいることです。ですが、私たちはクリスチャンですから、たとえ正直な思いを語り合ったとしても、互いに礼儀を持って、互いに尊重し合って、神様からの導きを受けることができると思います。

 イエス様は、人をさばくことを完全に否定しているわけではありません。もしも、どうしてもさばかなければならないなら、自分の目からちりよりもずっと大きい梁を取り除かなければならないのです。そして、良い方へと導かれるように、祈りつつ行動するのです。そのヒントがマタイ18:15から17にあります。罪とまで行かなくとも、私たちの交わりや教会生活の秩序を乱すような問題があったりするならば、私たちの交わりや教会生活を平安に保つために、そのつまずきについて目を背けることなく、率直に話し合うことのできる場が必要なのだと思います。

■2節 私たちはキリストにあって新しく生まれた者です。キリストを信じて10年以上経っておられる方が多いのではないかと思います。ここでは、生まれたばかりの乳飲み子のように、となっています。ペテロが向けて書いた手紙を読んでいるクリスチャンの多くがイエス様を信じてそんなに経っていない人々なのかもしれません。

 純粋な霊の乳とは、神のことば、聖書のことばです。この当時、それに当たるものは、旧約聖書です。霊の糧である聖書のことばを慕い求めて、クリスチャンとして成長するように励ましています。救いを得るためです、とありますが、成長しなければ救われないと言うことではありません。イエスを救い主と信じた時に、すでに救われています。しかし、救われた者がクリスチャンとして成長することは、クリスチャンライフそのものです。クリスチャンとなったからにはクリスチャンとして成長することが、私たちにとって人生の大きな生きる理由なのです。私たちは、救いを得るためにクリスチャンとして成長するのではありません。救いを受けた者なので、クリスチャンとして成長するように生きるのです。

 そのために、私たちは聖書のことばを慕い求めるように勧められています。生まれたばかりの乳飲み子のように慕い求めるように言われています。それは、熱心に聖書のことばを慕い求めなさい、ということです。けれども、熱心に聖書のことばを慕い求めて、神のことばを私たちの心に豊かに住まわせたとしても、なかなか実を結ばないことがあります。それはどこに原因があるのかというと、捨てるべきものを捨てないでいるからです。私たちがクリスチャンとして成長するために、捨てるべきものは捨てた方が良いのです。先ほど言いました、すべての悪意、すべての偽り、すべての偽善、すべてのねたみ、すべての悪口です。これらは、私たちの成長を妨げる茨です。それらをわきに置いて、関わりを拒否しましょう。そうして、私たちは、良い地に落ちた種、神のことばがもたらす実を、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍、見ていきたいと思います。

■3節に、「あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」とあります。私たちの生きる理由がクリスチャンとして成長することですが、しかし、クリスチャンとして成長を望みながらも、それを妨げるようなことが度々起こるのが現実です。成長したいと願っているのだけれども、なかなかうまく行かないことがあるのです。

 たとえば、私たちの弱さゆえに、神様の喜ばれないことに陥ってしまったり、この世の楽しみに心が奪われてしまったり、いろいろなところを経験して私たちのクリスチャン生活は進んで行きます。失敗のない完璧なクリスチャン生活など誰も送ることはできません。しかし、それでも、私たちは成長するために前に向かって進んで行くことが出来るのです。なぜならば、私たちがクリスチャンとして弱っているときでさえ、やり直すことが出来るからです。イエス様が十字架に架かってくれたのは、私たちの過去の罪の贖いだけではなく、今も、そして、これからも、それらすべての罪を贖ってくださるためです。これほどまでに、神様の私たちへの慈しみは深くて大きいのです。ですから、失敗しても大丈夫です。再びやり直せることを感謝して、再度、前に向かって進むのです。そうするならば、私たちは、成長している自分をきっと見出すことが出来ます。それではお祈りします。