人に従うより、神に従うべき

2024年7月7日主日礼拝「人に従うより、神に従うべき」

使徒の働き5:15~5:33 佐々木俊一牧師 

■前回は、使徒の働き5:11で終わりました。アナニアとサッピラ夫婦の出来事をとおして、教会全体に大きな恐れが生じることとなりました。大きな恐れが生じたと言うのは、神様が恐くて震え上がったと言うことではなくて、神様への畏敬の念、あまりにも聖く、大いなるお方であるゆえに、ただ神様を仰ぎ、神様を尊ぶ思いでいっぱいになったと言うことです。今日は、その後、教会の働がどのように進展して行ったのかを見たいと思います。

 アナニヤとサッピラの出来事の後、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議、つまり、病のいやしとか、奇蹟とか、そのようなことが人々の間でたくさん行なわれました。そして、さらに、人々は心ひとつにして、礼拝や祈りへと導かれました。それを見ていたクリスチャンではない人々はどのような反応だったかと言うと、あえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったけれども、クリスチャンのことを尊敬していました。ですから、クリスチャンの評判はとても良かったと言うことなのです。

 このように、教会の働きは、とても祝福されました。ユダヤ教の権威者からのクリスチャンへの迫害はありましたが、しかし、多くの一般市民はクリスチャンを歓迎していたのです。なぜでしょう。それは、クリスチャンたちがお互いに助け合ったり、支え合ったりしていたからです。クリスチャンたちは共に集まって、神様を礼拝し、熱心に祈っていたからです。そして、クリスチャンたちをとおして、多くのいやしや奇跡が起こっていたからです。それによって、多くの人々が助けられました。今まで誰も直せなかった病気が治ったのですから、感謝されないはずがありません。クリスチャンたちが神様を尊び、神様を大切にし、神様に従って、心一つにして礼拝と祈りをささげていました。その中で、神様はクリスチャンたちを用いて、教会の働きを大きく進めていったのです。

■15節~16節 ここに、こう書かれています。使徒たちによるいやしや奇跡の評判が広がって、ついに、このような現象が起きていました。「病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に寝かせて、ペテロが通りかかるときは、せめてその影だけでも、病人のだれかにかかるようにするほどになった。」とあります。客観的に見るならば、人々の間にはペテロを偶像化するような動きがあったのかもしれません。そのようなことには、十分注意が必要だとは思います。しかし、イエス様が弟子たちに、こんなことを言っていたのを思い起こします。ヨハネ14:12を見てみましょう。

 「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、さらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」

 イエス様はこの時すでに、イエス様が病をいやし、奇蹟を行なうように、弟子たちもと同じわざを行なうのだ、と言っています。それだけではありません。さらに大きなわざを行なう、と言っているのです。イエス様の言われたことが、このところでペテロを通して成就したといってよいのかもしれません。

 エルサレムの住民だけではなくて、その周辺の町々からもその評判を聞いて大勢の人々が集まって来ました。病人とか悪霊に苦しめられている人々が連れてこられました。そして、その人々はみないやされた、と書かれています。使徒たちをとおして、このような神様の素晴らしいみわざが起こっていました。これらのみわざすべてが、主イエス・キリストの御名によってなされたのです。そして、それは、主イエス・キリストの御名によって神様の栄光が現されたことを人々が見るためでした。それらの出来事を目撃した人々は、主イエス・キリストこそが真の神、救い主であることを信じたのです。

■17節~26節 イエス・キリストの御名によって使徒たちが行なっていることを知った大祭司やその仲間である、サドカイ人たちは、妬みに燃えて立ち上がったとあります。妬みとは、この前やりました。ある人が自分より優れているのを見て憎いと思う事です。彼らは、使徒たちが自分たちより優れたことを行ない、人々から注目されているのを見て、憎いと思い、殺すことさえ考えました。ですから、彼らは、使徒たちに手をかけて捕らえ、使徒たちを留置場に入れました。そして、次の日、ユダヤ教の最高法院サンヘドリンを開いて、使徒たちを裁くために裁判を計画しました。しかし、ここでまた、大変な事件と言うか、不思議な出来事が起こったのです。 

 その夜、主の使いが牢に入れられている使徒たちのところにやって来て、牢の戸を開けて彼らを連れ出しました。そして、み使いは言いました。「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい。」と。これを聞いた使徒たちは、夜明け頃、宮に入って教え始めたのです。

 一方、大祭司は朝になると、サンヘドリンを開くために、サドカイ人やパリサイ人、長老を集めました。そして、使徒たちを牢から出して連れて来るように指示しました。ところが、驚いたことに、牢の中に使徒たちがいないことがわかりました。そして、報告しました。その報告によると、「牢獄は完全に鍵がかかっていて、番人たちが戸口に立っていました。しかし、開けて見ると、中には誰もいませんでした。」と言うことでした。

 この報告を受けた宮の守衛長や祭司長たちは、いったいどうなってるんだ、と使徒たちの事で当惑したのです。

そこに、ある人がやって来て、「あなたがたが牢に入れた者たちが、宮の中に立って人々を教えています」と伝えました。それで、宮の守衛長とその部下たちは宮まで行って、使徒たちを再び捕らえて連れて来ました。前回は手荒なやり方で連れて来ましたが、今回は手荒なことはしなかったようです。なぜならば、宮にいた人々が再逮捕された使徒たちを見て、宮の守衛長や部下たちに襲い掛かるような雰囲気があったからでしょう。手荒なことをしたら自分たちが危ないと感じたのです。

 ここのところで、どうしてだろう、と思われることが二つあります。一つは、使徒たちをとおして、イエス・キリストの御名によってこんなにも多くのいやしや奇跡が起こっているのにもかかわらず、また、鍵のかかった留置場から使徒たちがみな解放されて、いつの間にか宮で人々にイエスの教えを教えている、そんな出来事を見ているにもかかわらず、使徒たちを再び逮捕するなんて、ユダヤ教の権威者たちは本当に主に対する恐れのない人々であったのでしょう。彼らは何が起こっても信じようとしませんでした。彼らはどうしてここまで頑なでいられるのか、本当に驚かされます。

 もう一つは、使徒たちは再逮捕された時、どうして逃げなかったのかと言うことです。イエス様がゲッセマネで捕らえられた時、弟子たちはみんなイエス様を置いて逃げ去って行きました。でも、今回は、弟子たちは逃げませんでした。使徒たちはどうして逃げなかったのでしょうか。使徒たちがそこから逃げなかったのは、彼らがイエス様のことばを覚えていたからでしょう。イエス様は弟子たちにこんなことを言っていました。マタイ10:17~18をお読みします。

 「あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院(サンヘドリン)に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。先ず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡す時、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」

 何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。なんと力強いことばでしょうか。彼らは、彼らが捕らえられることも、神様のみこころである、と覚悟していました。彼らが捕らえられることによって、神様は福音を宣べ伝える機会を与えました。そのようにして福音が広がって行くことは、前もって、イエス様によって語られていたことだったのです。

■27節~33節 使徒たちがサンヘドリンに連れて来られると、大祭司が使徒たちに尋問を始めました。大祭司は使徒たちの行なっていることを罪に定めるために次の二つの事を言いました。一つは、あの名(イエス・キリストの名)によって教えてはならないと厳しく命じておいたのに、お前たちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまったと言うことです。二つ目は、あの人(イエス・キリスト)の血の責任をわれわれ(大祭司とその仲間)に負わせようとしていると言うことです。大祭司は、イエスがキリスト(救い主)であることを認めたくないので、イエス・キリストとは言わずに、あの名とかあの人と言っています。

 それに対してペテロも負けてはいません。ペテロは前にも言ったように、人に従うよりも神に従うべきです、と確信をもって言いました。イエス・キリストの名によって教えること、イエス・キリストの救いを人々に教えることは神のみこころであることを、ペテロ自身、確信していたことです。ですから、ペテロは大祭司に向かって、人であるあなた(大祭司)に従うよりも、神に従うべきだ、ときっぱりと言えたのです。

 さらに、ペテロは、大祭司が言ったように、大祭司とその仲間がイエスを十字架につけて殺したのだと言うこともはっきりと再度言いました。しかし、殺されたイエスはよみがえられたのだ、と言うことも確信をもって言いました。そして、神様がそのようにされた理由を大祭司に伝えました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主としたのだ、ということを伝えたのです。ペテロは、自分たちはイエス・キリストの出来事の証人であり、また、神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人であるのだ、と宣言しました。ペテロの真実の証言を聞いた大祭司とその仲間たちでしたが、彼らは一向に自分たちの罪を悟ることなく、ますます自己欺瞞に陥って行きました。

■ペテロが捕らえられたのは、これで2回目でした。1回目の時は、ヨハネが一緒にいました。このとき、二人は牢に入れられた後、サンヘドリンで取り調べを受け、脅されただけで釈放されました。そして、2回目は、たぶん、ペテロも含めて、その他に使徒たちが大勢捕らえられたのでしょう。このときもまた、ペテロは、人に従うよりも、神に従うべきだということを大祭司に告げました。この後、ペテロは、また捕まります。使徒の働きによるならば、ペテロは3度、捕らえられています。このように、ペテロは、何度捕まっても、福音を語るのを止めませんでした。何があっても福音を語り続けるペテロでした。何があっても人ではなく、神に聞き従い続けるペテロでした。福音を宣べ伝えることは、神のみこころです。神の計画であり、神の命令です。これを、たとえ、国や人が宣べ伝えることを禁じたとしても、宣べ伝え続けるのがクリスチャンです。ペテロは、「人に従うよりも、神に従うべきです」と言ったように、私たちも福音を宣べ伝えることに関しては、そうあるべきです。福音を宣べ伝えることは絶対に止めてはいけません。

 私たちも福音を宣べ伝え続けて行きましょう。福音を宣べ伝えるときに、難しさを覚えることがあります。だからこそ、私たちは共に集まり、福音宣教のために心を一つにして祈る時を持ちたいと思います。私たちが共に集まり、心一つにして祈るならば、神様がその困難をも用いて、福音を宣べ伝える機会を与えてくださると信じます。それではお祈りします。