捨てられた石の秘密

2024年8月4日主日礼拝「捨てられた石の秘密」Ⅰペテロ2:4~10佐々木俊一牧師

  今日は、ペテロの手紙2:4~10を一緒に見て行きたいと思います。

■4節 「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた尊い生ける石です。」

ペテロは人々を主イエス・キリストのところに来るように招いています。主イエス・キリストは人には捨てられましたが、神には選ばれたお方なのだと言っています。それは、どういうことでしょうか。神の御子イエス・キリストは、神と人との間に和解をもたらすためにこの地上に来られました。それはまた、人々を罪の力と支配から自由にするためでもありました。神の御子は、この地上に人としてどのように来られたのかと言うと、それが、有名なクリスマスのお話です。今からおよそ2000年前にイスラエルのベツレヘムに人としてお生まれになりました。この出来事については、イスラエルの民の間で天地創造から人類の歴史の始まり、そして、彼らの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブから起こされたイスラエルの民の歴史の中で、将来起こることとして伝えられてきたことなのです。それは、タナハ(旧約聖書)として継承され、その中に救い主イエス・キリストの事が記されているのです。

 しかし、イスラエルの民は救い主なるイエス・キリストを拒絶しました。なぜならば、イエス・キリストが彼らの王としてふさわしくないと思ったからです。彼らが求めていた救い主は、彼らをローマ帝国の支配から解放してくれる政治的なリーダーとしての王様でありました。ところが、イエス・キリストはそのような素振りを一向に示すことなく、政治的な強い力に抵抗することもなく、結局、十字架に架けられて殺されてしまったのです。

 しかしながら、この十字架の出来事こそが、救い主なるお方の使命であり、目的であったのです。これこそが神のみこころであり、神の計画であったのです。救い主の十字架の死に秘められた奥義は、イエス・キリストの弟子たちにとっても理解しがたいことでした。しかし、その秘められていたことが明らかになった後には、イエスの弟子たちが自分の命を惜しむことなく、イエス・キリストの救いの宣教を遂行して行ったのです。こういうことで、イエス・キリストはイスラエルの民には捨てられましたが、神には選ばれた、尊い生ける石であるのです。

■5節 「あなた方自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」

 「霊の家」とは、神の宮、神殿と言うことが出来ます。神殿では、毎日のように、祭司たちが神へのいけにえ、神へのささげ物をささげていました。この5節から、あなたがたも聖なる祭司であるということが言われています。イエス・キリストを信じる者、つまり、すべてのクリスチャンは聖なる祭司であると言うことです。祭司の務めは、日々神へのささげものをささげることです。旧約時代の祭司は、人の罪の赦しのために、羊や山羊、そして、牛などのいけにえをささげていました。しかし、5節では、祭司は、イエス・キリストを通してささげるのです。イエス・キリストを通して何をささげるのでしょうか。動物のいけにえではありません。それは、霊的ないけにえです。霊的ないけにえは目に見えないいけにえです。神様はその目に見えない霊的ないけにえを喜んでくださり、受け入れてくださいます。それは、私たち自身であり、私たちの心です。イエス・キリストを通して私たち自身をささげ、私たちの心をささげるのです。さらに、読み進めていくならば、具体的にそれがどういうことなのかがわかってきます。

 ここで、すべてのクリスチャンは、霊の家に築き上げられるように勧められています。そのために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。それは、日々、私たち自身を神へのささげものとしてささげる思いで生きて行くことです。つまり、それは、私たちが日々、神に喜ばれるように生きることを目標とし、そのように生きようとすることなのです。

■6節~7節 ここでペテロは、イザヤ28:16から引用しています。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者はけっして失望させられることがない。」

 要とは、扇の骨組みを一つにまとめている部分、重要な部分です。要石とは、建物の礎石です。建物の大きな柱を支える土台石のことです。イエス・キリストは霊の家、霊的な神殿を支える最も重要な土台石として据えられました。そして、イエス・キリストに信頼する者たちも、その神殿を築く一つの石として据えられるのです。

 ペテロはまた、詩篇118:22のことば、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」を用います。イエス・キリストは、本来、神の家である神殿を築くイスラエルの民に捨てられてしまいました。しかし、その捨てられた石が神の家である神殿の重要な礎石となったのです。さらに、ペテロは、イザヤ8:14~15のことばを引用して、イスラエルの民が神殿の礎石であるイエス・キリストにつまずくことが予告されていたことを示します。ペテロは、イスラエルがイエス・キリストにつまずくように定められていたのです、と言っています。このことは、確かに成就しました。しかし、それは、いつまでも続くのではありません。もちろん、ペテロ自身もそのことは旧約聖書を通して知っていたことだと思います。これについては、パウロがローマ11章ではっきりと言っていることです。救いは、異邦人のための時代が終わったならば、次にイスラエルのために再び動き始めるのです。イスラエルが救いから除外されることはけっしてありません。神様の計画は、異邦人もイスラエル人も救うことです。神様は両方に対して恵み深いお方なのです。

 捨てられた石、つまずきの石については、イエス様も、そして、パウロも引用して語っていることです。イエス様は、マタイ21章で語っています。

■9節~10節 「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉は、あなたがたが告げ知らせるためです。」

 あなたがたとは、私たちのことでもあります。ここで、私たちがイエス・キリストを救い主と信じて後、どのような立場にあるのかを語っています。それが本当ならば、すごい事だと思います。でも、本当なのです。本当に私たちにはすごい事が起こっているのです。自分が思う以上に、私たちはすごい立場を与えられているのです。私たちは神によって選ばれた人々です。そして、私たちは神なる王様の家に属する祭司です。また、私たちは、神様のために他から引き離されて、神様の目的のために用いられる人々です。私たちは神のものであり、神に属する者なのです。私たち一人一人を神様が選んでくださり、神の働きのために用いられるように導かれています。私たちはそのことを、心から感謝したいと思います。そして、行動をもって、私たちの感謝を表したいと思います。

 それでは、私たちはどのように感謝を表したらよいのでしょうか。それは、私たちを闇の中から、神様ご自身の驚くべき光の中に召してくださったイエス・キリストの栄誉を、私たちが告げ知らせるのです。イエス・キリストを救い主と信じる前の私たちは、闇の中に住む者のようでした。闇の中にいて、いつなんどき、何が襲いかかって来るかわかりません。ある時は病気になり、ある時は人間関係がうまく行かず、いつも心配や恐れや不安があって、安らぐことがありません。劣等感や罪責感に苛まれることもあります。私は何のために生きているのだろう。生きていたとしてもいつまでも生きるわけではなく、いつか必ず死んでしまうのに・・・。人生の目的とはいったい何なんだろう。いろいろな疑問もわいてきます。

 そんな中、私たちはイエス・キリストと出会うことが出来ました。イエス・キリストを信じることで問題が完全になくなるわけではありません。けれども、私たちはこの地上で終わりでないことを知りました。この地上の目標や希望が私たちの目指していることではありません。この地上の後に、永遠に終わることのない神の御国こそが私たちの希望であり、目指すところであることを信仰によって受け取っています。それはすべて、イエス・キリストの十字架のみわざのおかげなのです。このイエス・キリストの救いをまだ知らない人々に分かち合うために宣べ伝えることがすでに救われている者たちの役割なのです。

■10節 以前は、神の民と言ったら、それは、イスラエルの民を意味していました。けれども、ここでは、イスラエルの民ではなく、イエス・キリストを信じた異邦人の事を言っています。異邦人であってもイエス・キリストを信じるならば、神の民となるのです。時代は変わったのです。以前、異邦人は神のあわれみから遠い所にいました。しかし、今は違います。異邦人たちも神のあわれみを受けています。イエス・キリストがそのような時代をもたらしてくださいました。その時代は、今に至って続いています。

 捨てられた石の秘密については、旧約時代から語られていたことでした。旧約聖書に載っています。イエス様も旧約聖書を引用し、捨てられた石であるご自身のことを語り、その捨てられた石が要の石となるのだ、ということをパリサイ人たちに語っています。さらに、ペテロやパウロも同様に、捨てられた石の秘密について語っています。しかし、それでも、ほとんどのユダヤ人はその石を捨てた者が自分たちであることや、捨てられた石がイエス・キリストであることを悟ることはありませんでした。

 けれども、異邦人の時が終われば、ユダヤ人たちにもそのことがわかる時がやってきます。その時には、多くのユダヤ人が、あの十字架に架かって死んだイエスがメシアであることを悟ることになるでしょう。

 神様の救いの計画は完璧です。神様のあわれみはユダヤ人の上にも異邦人の上にも豊かに注がれます。先の物が後になり、後の物が先になったとしても、神様は両方の多くが救われることを願っているのです。私たちもそのことを覚えて、神の計画に喜んで励んで行きたいと思います。それではお祈りします。