死んだ人が生き返った話

2024年8月11日主日礼拝「死んだ人が生き返った話」ルカ7:11~17佐々木俊一牧師

■聖書の中に死人が生き返ったという記事をいくつも見つけることができます。旧約聖書のⅡ列王記4章には、預言者エリシャが世話になっていた裕福な女の一人息子が死んだとき、エリシャによってその息子が生き返ったことが書かれています。同じくⅡ列王記13章には、エリシャが死んで墓に葬られた後のあるとき、同じ墓に死人が投げ入れられました。その死体がエリシャの骨に触れるや否や、生き返って立ち上がったと書かれてあります。

 また、新約聖書では、ヨハネの福音書11章に、マルタとマリヤの兄ラザロがイエスによって生き返ったことが書かれてあります。マルコ5章には、会堂管理者ヤイロの娘がイエスによって生き返ったことが書かれてあります。使徒9章では、ペテロによって病気で死んだヨッパのタビタという女が生き返っていますし、使徒20章には、パウロによって、集会中3階の窓から下に落ちて死んだ青年が生き返ったことが書かれています。

 死人のよみがえりの奇跡の記事が、このようにいくつも記録されているのには神様の意図があるのでしょう。そして、何よりも、イエス・キリストが十字架につけられて死んで3日目によみがえられたことが、聖書の中で最も重要な出来事として記されています。この出来事がなければ、人類の救いは成し遂げられることはありませんでした。 実は、旧約聖書にも新約聖書にも、人が死んで生き返ったということが記されているのは、イエス・キリストの復活の出来事と非常に関係があるのです。

 今日は、そんな死人のよみがえりの記事の中から、ルカの福音書7章にあります、あるやもめの一人息子が死んで、その息子をイエスが生き返らせたという記事を見て行きたいと思います。

■11節 「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。」

 ナインという町は、ナザレの少し南にあります。イスラエルに行くと、現在もこの町が存在します。イスラエルには、昔からの地名が現在も残されているのは珍しくありません。たとえば、ガザは創世記10章にすでに出てきます。イエス様は弟子たちといっしょにナインという町に向かっていました。そして、その後ろから大ぜいの人の群れがついて来ました。

■12節~15節 「イエスが町の門に近づかられると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」

 イエスは悲しんでいる母親を見てかわいそうに思われたとあります。私たちはイエスをとおして神様の私たち人間に対するみ思いを知ることができます。神様は、死という絶望の中から自力では抜け出せない私たち人間をかわいそうに思い、助けの手を差し伸べてくださっているのです。そして、また、イエスをとおして神様のことばの権威と力を示しておられます。神のことばには、死人を生き返らせる力があるのです。

■人のよみがえりは何を意味しているのか

①救い主イエス・キリストを表す出来事。(これらを、型、予型、予表という)

先ほど、旧約聖書に出て来た、エリシャは、イエス・キリストの予型と言えます。エリシャとその出来事をとおして、これから現れる救い主はどのようなお方かを前もって予告されているのです。

②救い主イエス・キリストの死と復活を表す出来事。

 エリシャをとおして生き返った女の一人息子や、イエスによって生き返ったやもめの一人息子、または、マルタとマリヤの兄、ラザロが生き返った出来事などは、イエス・キリストの復活を表していると言えるでしょう。

③死に対する神の権威と力を表す出来事。

 死は、命あるものすべてが必ず通らなければなりません。死に対して人は無力です。ですから、生き返るなんてことは、ふつう、考えられないことです。しかし、聖書には、死んで生き返ったという記事をいくつも見つけることができます。何よりも、イエス・キリストの死と復活は、私たちに希望を与えるものとなりました。今まで不可解で謎に包まれていた死に対する恐怖は、イエス・キリストの復活によって取り去られました。すべてを造り、すべてを支配しておられる神様には、死んだ者を生き返らせる権威と力があるのです。

■復活は救いの核心

 この地上で、たとえ、いやされたり、生き返ったりしても、死は必ずまたやって来ます。聖書の中で保証されていることは、イエス・キリストを信じる者には、朽ちることのない新しい体が用意されていること、永遠のいのちです。

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」(Ⅰコリント15:52~54)

 神のことばには権威と力があるので、必ず、そのことは実現します。

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ6:40)

 信じる者をみな終わりの日によみがえらせますというみことばは必ず実現します。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」(Ⅰコリント15:20・21)

 イエス・キリストは、確かに死の力を打ち破りよみがえられました。そして、その事を信じる私たちも、同じようによみがえるのです。イエス・キリストの復活は、復活を信じるクリスチャンの希望です。なぜなら、イエス・キリストの復活によって、たとえ、この肉体が死んだとしても、朽ちることのない新しい体でよみがえることがわかったからです。

■今日は、召天者記念礼拝です。この地上の命をまっとうして、今はパラダイスにいます兄弟姉妹のことを覚えたいと思います。この地上においては、楽しいことばかりではありませんでした。苦しいこともたくさんあったと思います。

 終りに、詩篇73:28をお読みしたいと思います。

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」

 今は天のみ国にいて、神様の近くにいます兄弟姉妹は、この地上にいた時以上に、幸せな環境にある事は確かなことです。神様のそばにいることほど、何よりも私たちにとって幸せなことはありません。将来、私たちが新しい命の体をもってよみがえることは、確かなことです。

イエス様と顔と顔とを合わせてお会いすることがあることも、確かなことです。そして、天の御国にいます私たちの主にある兄弟姉妹たちと再会し、共に語り合う時を迎えることも、確かなことです。これらの希望を胸に、残りの人生を主の栄光を現すために生きて行くことを、私たちは今日、新たに決意したいと思います。それでは、お祈りします。