リーダーの働き

2024年8月18日主日礼拝

 

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

テモテへの手紙 第二 4:1-8

 

リーダーの働き

 

  ここにいるオープン・ドア・チャペルの皆さん、そしてオンラインで共にいらっしゃる皆さん、キリストの御名によってご挨拶します。今日も私たちは「キリスト教会のリーダーシップ」というテーマについて神の御言葉を受け取り続けていきます。私たちは「リーダーの霊的賜物」と「リーダーの人格」を見てきました。今日は神が召されたリーダーに求めておられる実際の働きに焦点を当てたいと思います。私たちの祈りは、この学びを通して、私たちが次の主任牧師を招聘するべき時に、私たちが次のリーダーに求める働きを伝える為に、何を私たちが備えるかをより明確に見られるようになることです。

 

 パウロが彼の「信仰による、真の我が子」テモテにメンタリングの働きを続けているテモテへの手紙 第一からテモテへの手紙 第二へと移りました。私たちは彼の手紙の中に彼の目的を見いだせます。2:2節に書かれている「私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」

 

 多くの聖書学者は、この手紙はパウロが書いた最後の手紙だと言っています。彼はどうやら自分の死が間近に迫っていると信じているようで、6節で「注ぎのささげ物となっています。」と書いて私が世を去る時が来ました。と言っています。それについては後ほど説明します。ここで、「キリスト教会は常に一世代で消滅する」と言うことわざを私たちは思い出させられます。もちろん、神の御業が失敗すると言う危険にさらされてはいません。イエスがペテロに「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイの福音書 16:18節)と言われた時の約束は確かなものです。しかし、本質的に私たちの信仰は受け入れる意志のある人にのみ伝えることができません。それは始まりから愛に基づいていて、誰かに強制することは不可能である事を私たちは知っています。パウロは、本物の信仰を守ることか重要かを熟知していて、テモテがそれを理解することを深く願っています。パウロは、自分の弟子(後継者)に信仰を細心の注意を払って信仰を取扱い、そして正確且つ忠実に他者に委ねられる準備ができるようになって欲しいと願っています。

 

 私たちの教会の次期牧師を招聘する準備をするにあたり、私たちは将来に焦点を置くことの重要性を常に念頭に置く必要があります。私たちは今あるものを維持して私たちが必要なものに目を向けるだけではなく、私たちがいなくなった後に神が私たちに続く者として育てたいとお考えの人々に目を向ける事を主要な目標に設定する必要があります。

 

 つまるところ、私たちは、当然ながら永遠にここにいるわけではありませんので、私たちが別れを告げる際には、オープン・ドア・チャペルと言う素晴らしい神の御業を信頼できる手に委ねたいと思うでしょう。今はそのための準備をする非常に貴重な時です。

 

 これらの大きな目標を念頭に置きつつ、パウロは既にテモテにテモテへの手紙 第二 2:15節で「恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。」と求めています。そして彼は焦点を絞りました。「真理のみことばをまっすぐに説き明かす」ここが、私が今日皆さんと共に最も入念に見ていきたいことです。

 

 キリストのメッセージを彼に従う者に忠実に伝える事は、教会のリーダーの働きの核心です。それだけが働きではありません。例えば祈りの働きがあります。テモテへの手紙 第一 2:1-4節でパウロは指示をしています。

 

 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。

それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。

 

 また、和解の働きもあります。コリント人への手紙 第二 5:18節でパウロは神について「これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」と書いています。

 

 それが伝道です。私は、私たちがリーダーを見つけるために考慮すべき、教会生活の主な領域を繰り返し皆さんに話してきました。伝道の他に、礼拝、信仰(神との関係)、共同体、奉仕が含まれると言えます。牧師の特定の賜物が、これらの領域で教会を十分に準備できない場合、他の教会員とその賜物を用いて、神の教会としてうまく機能できるよう神に信頼することでしょう。これらの領域すべてにおいて、祈りは不可欠です。同様に神の言葉である聖書も不可欠です。定期的に神の教えを学ぶことで彼に耳を傾けることは、信仰の共同体としての私たちの生活の中心となるので、今日の聖書箇所の1節から学び続けましょう。

 

 パウロはこう言っています。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。」The New International Readers’ Version (NIrV)訳には「生者と死者」(“the living and the dead”)と言うフレーズがあります。古い欽定訳聖書(King James Version/KJV)では「生きている者と死者」(“the quick and the dead”)となっています。

 

 これは私に私が毎日通勤する北星学園大学正門のすぐ外にある横断歩道を思い起こさせます。横断歩道を歩いて渡る人がいるとき、車の運転手は止まってその人たちを先に行かせるはずです。ですが、多くの人がそうしていないことに気づきます。ですので、この2つのカテゴリーは、この横断歩道のような場所を渡ろうとする私たちのためのものかも知れません。「生きている者と死者」

 

(約30年前、ハリウッドの人々がカウボーイ時代に銃撃戦をしていた時代の人々の映画を作成しました。その映画のタイトルは皆さんが想像できる理由から“The Quick and the Dead”[1]でした。)

 

 パウロは生きている人と死んだ人について話していますが、終わりの時にキリストが再臨された時に、その時に生きているか、それ以前に死んだかに関わらず、私たち全員が彼に会うと言っています。「来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国」[2]。私たちは皆、私たちの牧師も含めていつか神の御前に立ち、神が私たち一人一人に与えてくださったかけがえのない命の贈り物をどのように扱ってきたかについて答えることになります。神は特に、私たちに救いの道を開く為にご自身の一人子を十字架にかけてくださったことに対して、私たちがどのように応えたかを知りたいと思われるでしょう。ですから、私たちそれぞれに与えられた彼に仕える為の彼の召しを軽んじるべきではありません。これら全てを考慮してパウロは「私は厳かに命じます。」と言っています。(1節後段)

 

 何を命じたのでしょうか?第2節には「みことばを宣べ伝えなさい。」とあります。「宣べ伝える。」宣言する。真実を主張する。発表する。パウロが使っている言葉のニュアンスはこのような感じです。これはギリシャ語のkérussó[3]からです。意味は、国王のような重要人物の公式の使者、つまり伝令になることを意味します。伝令は、戦争などの重要な問題において国の指導者を代表する大使のような存在です。ですから、「説教者」は、例えば自分の意見や好きな話題などについてメッセージを伝えてはいけません。それは、国王の使者が外国との交渉に個人的なコメントを挟み始めるのと同じくらい無謀なことです。それは賢明でないだけでなく、危険でもあります。

 

 このような宣言は、大きなニュースがあったときに人々が行うことであり、皆に知らせるべき重要なことです。今日の為替レートや明日の天気予報に関するものではありません。さらに、「説教」は叱ったり非難したりすることを意味しません。会話の中でよく使われる言葉ですが、そういった言葉はよく耳にするかもしれません。

 

 説教することと教えることは同じではありません。それは単なる分析したり説明したりすることではありませんが、それらはしばしば神のメッセージを宣べ伝える一部になります。オープンドアには多くの教師がいますが、知らず知らずのうちに説教を教室の授業のようにしてしまうことがあります。しかし、「伝令」が神からのメッセージの真理を宣べ伝えないなら、その人は説教とは異なることをしていることになります。もし「説教」が私たちを祈り、神とのより深い関係、より敬虔な生き方、神の御名により人への奉仕に導かなければ、説教とは違うことが起こったことになります。あるいは、結果的に何も起きなかったのかもしれません。たとえ話者が巧みで興味深い方法で物語を語ったり、情報を提示したりすることに成功し、聴衆を楽しませたとしても、それは聖書の神が命じている説教ではありません。私たちには、神の言葉をありのままに純粋に伝える牧師が必要です。

 

 「みことば」とは何でしょうか?The New Revised Standard Version訳では「メッセージ」[4]と訳されています。パウロがテモテに手紙を書いていた時代では、これは旧約聖書を意味します。彼らはこの手紙が神の書かれたみことばの正式な一部となることをある程度理解しているかもしれませんが、その過程には何百年もかかるでしょう。今のところ、パウロは聖書の説教を教会のリーダーの仕事の中心に据えています。そして、彼はキリストに強く焦点を当てています。これは旧約聖書について重要なことを示しています。イエスは新約聖書だけで見出されるわけではありません。旧約聖書全体が、ある意味では、メシアの到来への備えです。イスラエルの律法や歴史、預言者たちを理解するには、それらがイエス・キリストについて何を示しているかを理解しなければなりません。ですから「みことばを宣べ伝えなさい」という命令はパウロとテモテの時代に適していたものであり、すべての時代に適用されます。

 

 第2節[5]には「必要に応じて語るべきことをいつでも柔軟に話せるように準備しなさい」[6]とあります。KJVでは「季節を問わず即座に」[7]となっています。コリント人への手紙 第一 9:16でパウロは否定的にこう言っています。「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」伝道者の書 11:6の著者はより肯定的な言葉遣いで書いています。「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」

 

 テモテの仕事は、ただ人々の前に立って神の言葉を巧みに宣べ伝えるだけならば、終わったことにはなりません。それ以外にもたくさんのことがあります。教育界のことわざで言われるように「話すことは教えることではない。聞くことは学ぶことではない。」[8]のです。誤解が生じます。人々は神の導きに抵抗します。ですので、パウロは2節後半で、こう続けます「忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」ですから、皆さんの意見に同意して、心地よい「支えになる」ことを言うだけでは、牧師としての仕事を果たしていません。牧師が兄弟姉妹を正したり糾したりするときに、その関係全体が疑問視されたり脅かされたりしないよう、十分な信頼関係を築く必要があります。そのときでさえ、私たちをより深いところで結びつけているものがあることを、私たちはみな知っています。

 

 「彼らを励ましなさい」[9]と訳されている言葉を見てみましょう(2節後半のparakaleoから)。異なる翻訳はここがかなり異なることがあります、特に原語の単語がさまざまな意味で使用されることがあるためです。一つには、あなたがその人がすべきだと信じていることを誰かに求める、というニュアンスがあります。例えばマタイの福音書 8:5以降では、ローマの百人隊長が、ひどく苦しんでいるしもべの問題を持ってイエスのところへ行ったことがこれに当たります。「人の百人隊長がみもとに来て懇願し」マタイの福音書 8:5

 

 イエスがカペナウムに入ると、ローマの百人隊長が彼のみもとに来ました。彼はイエスに助けを求めました。「主よ、」と彼は言い、「私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」

 

 イエスは喜んで行って彼を癒します。

 

 同じ言葉がイエスの有名な言葉「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイの福音書 5:4)にも現れます。ここでは、人々を励ましたり、支えたりする意味で使われています。

 

 では、テモテへの手紙でパウロが考えているのはどちらの意味でしょうか?教会のリーダーは、神の言葉に従って正しいことをするよう人々に熱心に求めるべきなのでしょうか?それとも、人々が慰められ、受け入れられ、支えられていると感じられるように支援することに力を注ぐべきでしょうか?おそらく、この2つの選択肢から選ぶのは間違いでしょう。どちらも、教会のリーダーが神の民が積極的かつ忠実に神に従うように導こうとするならば、日常的に行うべきことです。次の牧師を選ぶ際には、この二つの方法で導く人を探す必要があります。

 

 聖書学者であり哲学者でもあるダラス・ウィラードがよく言っていたように、「私たちの欲望は壊れている」[10]のです。人間は複雑な生き物です。例えば、私たちは信仰を成長させてくれるリーダーを求めながらも、私たちが今のままでいいと言ってくれるリーダーを求めることがあります。私たちは、自分が聞きたいことを言ってくれるリーダーを求めるかもしれません。キリストはそのように私たちを導くことを約束されたわけではありません。彼がその働きを続けるために配置されるリーダーもそうするべきではありません。ですから、次の主任牧師を探すにあたって、自分に正直になり、その人が提示する聖書の教えの楽な部分も不快な部分も本当に受け入れられる覚悟を持ちましょう。

 

 パウロは5節の後半でテモテに、この仕事が厳しいものになると警告していますが、あきらめてはならないと言っています。彼は「伝道者の働きをなし」[11]と言っています。KJV等では「伝道者の働きをしなさい。」となっています。それは何でしょうか?書の例や教えから判断すると、伝道者たちは使徒たちの後に続き、彼らが植えた教会を成長させるのを助けました。そのプロセスは今も何世紀にもわたって続いています。伝道者は、牧師のように長期的には存在せず、新しい教会を立ち上げるために一定期間地域に滞在することがあります。より永続的な指導者が決まるまで、その教会を率いることもあるかもしれません。私たちのオープン・ドアへの祈りは、私たちが完全に形成され成熟した教会になり、積極的に次の教会を植え、新しい教会を神の導きの下、信頼できる手に託した後、別の教会へと進んで行くことです。

 

 5節で、パウロはテモテへの命令をまとめ終えています。「神があなたに与えられた務めを全うしなさい。」[12]ここでの表現は興味深く、訳によってかなり異なります。いくつか例を挙げましょう。

 

「…あなたの奉仕の義務をすべて果たしなさい。」

(New International Version/NIV)

「…あなたの奉仕を全うしなさい。」

(New King James Version/NKJV, New American Standard Bible/NASB)

「…あなたの奉仕を完全に遂行しなさい。」

(New Revised Standard Version/NRSV)

「…神のしもべとしてあなたの義務をすべて果たしなさい。」

 (Good News Translation/GNT)

「…神への奉仕に必要なすべてのことを行いなさい。」

(Complete Jewish Bible/CJB)

「…神のしもべとして徹底的に働きなさい。」

(The Message (paraphrase)/MSG 4:3-5)

 

 OK、パウロ、私はかなりあなたに従っていると思います。一部ではなく、すべてです。それでも、私の質問は、「すべて」とは何でしょうか?少し詳しく説明してもらえますか?

 

 それでは、オープン・ドアの皆さん。第一に、あなたが特に得意だと感じている働きだけでなく、神があなたに与えた働きのすべての部分を行ってください。他のものよりも好きなものや、人々があなたを褒めたり、何度も頼んだりする働きだけでもありません。神があなたに与えるすべての働きを続けて行いなさい。第二に、神があなたに仕えるように送られた全ての人々に仕えなさい—あなたがより快適に感じる人々や、あなたに親切にしてくれる人々だけではありません。あなたの給料の大部分を支払う人や、所属する組織で最も権力を持つ人に他の人より注意を払わないようにしてください。神があなたに仕えるようにしてくださるすべての人に仕えなさい。第三に、心・思い・たましい・力の全てを尽くして、あなたが持っているすべてで–何も残さず仕えなさい。第四に、神がこの仕事を行うことがあなたにできるようにいてくださっている限り、常に仕えなさい–神が、その時が来たと告げられるまで、決してあきらめないでください。私たちには、このことに献身的な牧師が必要です。私たち全員が次のODCのリーダーと共に最善を尽くして働くために、これにコミットする必要があります。

 

 あなた自身を100%捧げることは、旧約聖書の律法に従った儀式で「注ぎのささげ物」を注ぐようなものです。神は民数記 28:7でご自身の民にこう告げておられます。「…ぶどう酒の献げ物は、羊一匹について四分の一ヒンとし、聖所で、主に対するぶどう酒の献げ物として、酒を注ぐ。」パウロはこのような生活—神に完全にコミットした生活—をモデルとし、神の助けを借りてテモテに同じようにするよう促しています。

 

 この世でのパウロの人生が終わりに近づいたとき、彼は「走るべき道のりを走り終え」(7節)たと書いています。最近、パリオリンピックで多くのランナーがフィニッシュラインに到達したのを見ましたよね。中にはコース上で転倒し、疲れ果ててしばらく一歩も踏み出さない選手もいました。しかし、彼らは良いレースをしたことを知り、それはすべての努力に値することで、ほっと安堵と笑みを浮かべていました。レースを完走することは、私たちが心に留めておくのにふさわしい精神的なイメージは、「完了した」(ヨハネ19章30節)と十字架で自らの命を全うされたキリストに従う者だからです。それが何であれ、リーダーたちと一緒に、私たちに与えられた働きに対して、私たちが取るべき態度です。私はもうすぐ退職する年齢になりますが、今、私は今それがとても魅力的だと感じています。神が私の前に置いてくださる仕事をただ終わらせたくありません。力強く終わらせて、完成させたい。一緒に「任務完了」と言えるように祈りましょう。

 

 私たちが神の導きに従い、人生の旅を終えるとき、パウロは「栄冠」が報いとして私たちに与えられると言います(8節)。栄冠という言葉、ステファノ[13]は、パウロの時代のギリシャのオリンピック競技で与えられた花冠であり、今日のオリンピックで与えられるメダルのようなものです。私たちの人生は、時として消耗しきったと感じることがあり、私たちが思っていた限界を超えてしまうこともあります。しかし、私たちが自分の必要、状況、そして人生そのものを神の手に委ね続けるならば、遅かれ早かれ、彼が道中ずっと私たちに力を与え、守ってくださったことを理解するようになるでしょう。そしてそれは神のご臨在の中での永遠のいのちの報いという言葉では言い表せないほどの良さを考えると、それは値する以上のあるものだということがわかるでしょう。

 

 祈りましょう。

 

 聖書の言葉を通して私たちに語りかけてくださる神よ、あなたの声を聞くために開かれた耳を私たちに与えてください。学ぶ準備ができた心と、学んだことに進んで従う思いを私たちに与えてください。何よりも、あなた自身の導きのもと、そして次のリーダーとして送ってくださる方を通して、私たちが共にあなたに近づき、お互いに近づくことができるように、私たちが自らをあなたの言葉の権威のもとに置くことを助けてください。日々、私たちがより一層その通りに生きられるように助けてください。これが私たちの祈りです。イエスの御名によって、アーメン。

 

 

参考

 

Begg, A. (2019, September 16). Elders – Taking Care of God’s Church. Exposit the       Word. Line by Line Bible Study. https://www.youtube.com/watch?v=1l8   PReSTp0U

Bible Study Tools. (2024). Salem Web Network. Salem Media Group.               https://www.biblestudytools.com/lexicons/greek/kjv/kerusso.html

              https://www.biblestudytools.com/lexicons/greek/kjv/ parakaleo.html

              https://www.biblestudytools.com/lexicons/greek/kjv/stephanos.html

Henry, M. (1706). Matthew Henry Commentary on the Whole Bible (Complete).      https://www.biblestudytools.com/commentaries/matthew-henry-  complete/2-timothy/4.html

 

 

引用元提示:

新改訳聖書 2017と略記したものは

『聖書 新改訳2017』

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

より規定範囲内で引用

 

 

NIrV stands for New International Reader’s Version.[i]

Holy Bible, New International Reader’s Version®

Copyright © 1995, 1996, 1998 by International Bible Society

 

[1] 『邦題「クイック&デッド」。主演シャロン・ストーン』

[2] テモテへの手紙 第二 4:1節中段『新共同訳 新約聖書 日本聖書協会』

[3] Κήρυξον(g2784)

[4] “proclaim the message” (The New Revised Standard Version)

[5] “Preach the word. Be ready to serve God in good times and bad. Correct people’s mistakes. Warn them. Cheer them up with words of hope. Be very patient as you do these things. Teach them carefully.” (NIrV)

[6] ERV訳-読みやすい聖書-(新約聖書)

[7] “be instant in season, out of season” (KJV)

[8] “Talking isn’t teaching. Listening isn’t learning.”

[9] “Cheer them up…” (NIrV)

[10] “Our wanters are broken.”

[11] “Work to spread the good news”. (NIrV)

[12] NIrVの意訳をしました。該当する日本語訳聖書が見つかりませんでした。

[13] στέφανος,(なお使徒の働きに出て来るステパノと同じ語源です。)