祈りとみことばの奉仕の大切さ

2024年8月25日主日礼拝「祈りとみことばの奉仕の大切さ」使徒の働き6:1~7 佐々木俊一牧師 

■ペンテコステの日に聖霊が降られて以来、イエスを救い主と信じる者たちの数が勢いよく増えていきました。ペテロの説教やいやしの働きをとおして、3000人が救われ、5000人が救われ、数カ月の間にクリスチャンの数が一万人は超えていたのではないでしょうか。誰かに福音を語るならば、次から次へと信じる者が起こされるような、そんな状況であったのだと思います。日本の現状を考えると羨ましい限りです。

 過越しの祭りやペンテコステの祭りが終わった後も、海外から集まっていたユダヤ人たちの中にはイエスを救い主と信じ、エルサレムに留まり続ける者たちが大勢いました。信じた人々の中には自分の財産を売って教会へ献金としてささげる者も少なくなかったようです。人々はそれを分け合って共同生活していたことが、使徒の働き2章と4章に書かれてありました。

 しかしながら、人が増えれば、その分問題も増えることが容易に想像できると思います。実際に、教会の中で起こった事件として、先日お話したアナニヤとサッピラ夫妻の出来事がありました。そして、今日見ていく使徒の働き6章には、また別の問題について語られています。今日は、その所を中心に見て行きたいと思います。

■1節 ここではまだ、イエス様を救い主と信じた者たちのことをクリスチャンとは言っていません。弟子と呼んでいます。イエスを信じる者たち、弟子の数が増えるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た、と書かれています。ギリシャ語を使うユダヤ人たちはイスラエルの地ではなく、海外で生まれ育ったユダヤ人です。それに対して、ヘブル語、正確に言うとアラム語、アラム語を使うユダヤ人たちはイスラエルで生まれ育ったユダヤ人です。ユダヤ人ではあるけれども、生まれ育った環境や文化的背景が異なる2種類のユダヤ人たちが教会にいました。そして、彼らの間にちょっとした対立が生じたのです。

 使徒の働き2章に語られている教会の様子はこうでした。人々は毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた、とあります。しかし、6章では様子が違います。最初の頃の理想的な状態が変化していました。先ほど言ったように、人が多くなれば、その分問題が生じる要因も多くなるのです。人がたくさん集まれば、それだけ問題が起こる頻度が多くなるのは当然のことと考えた方が良いでしょう。

 たぶん、初めはアラム語を話すユダヤ人が多かったのでしょう。日が経つにつれて、祭りのために海外からやって来たギリシャ語を話すユダヤ人たちも教会に加わるようになりました。ある時からその割合が増えて行ったのでしょう。どちらかと言うと、アラム語を話すユダヤ人たちが中心になって教会の活動は行われていたのではないかと思います。ですから、普通に考えれば、アラム語を話すユダヤ人たちにとって有利に働く傾向はあったのではないでしょうか。アラム語が苦手なギリシャ語を話すユダヤ人に対して、アラム語が日常語であるユダヤ人に何か優越的なふるまいがあったとしても不思議ではありません。最初は良くても、一緒にいる時間が長くなればなるほど、問題が浮き彫りになって来ることはよくあることです。

 その問題と言うのは、食べ物の問題でした。ギリシャ語を話すユダヤ人の中のやもめたちに対して、きちんと食糧が配給されていなかったのです。ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちがなおざりにされていたと言うことですから、軽く扱われて見落とされてしまったのかもしれません。

■2節 その問題が発覚した時点で、12人の使徒たちはそのことにきちんと対応しました。放って置かないで、即座に彼らは動いたのです。それは大変良い結果をもたらすことになりました。12人の使徒たちは、すべての弟子たちを呼び集めた、とあります。ここで弟子たちと言うのは、信者のすべてを指しているのか、そうであれば、一万人はいるでしょう。または、信者の中でも奉仕活動にたずさわっていた者だけを指しているのかもしれません。どちらにしても、かなりの大人数の人々が呼び集められたことは確かです。たぶん、ペテロが代表してその対応策を語ったのだと思います。そして、まず、第一に言ったことは、12使徒が、神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くない、自分たちが、しなければならないことは、第一に祈りとみことばの奉仕であり、そのことに専念することなのだ、と言うことを告げました。12人の使徒たちがまず、第一にやらなければならないことは、祈り、そして、みことばの奉仕であるという自覚が彼らにはありました。

 使徒たちにとって、第一に優先すべきことは、祈りとみことばの奉仕である、と言うのは理解できます。けれども、祈りとみことばの奉仕と言うのは、そんなに時間をかけなければならないことなのでしょうか。皆さんはどう思われるでしょうか。ここで、祈りとみことばの奉仕について少し考えてみたいと思います。もしも、祈りが、単に自分のお願い事を神様にするだけなら10分もあれば十分でしょう。でも、お願い事は自分の分だけではなくて、他の人のためにも祈ります。ですから、もう10分追加する必要があるでしょう。合わせて、20分あればよいでしょうか。でも、本来、祈りは、ただ、個人的な願い事をするだけのものではありません。 

 オープン・ドア・チャペルでは、火曜日の午前10時半から12時まで聖書の学びと祈り会の時を持っています。賛美と学びのために45分、祈りのために45分を費やしています。祈りは、皆さんからのリクエストに従って、病のいやしや旅の守りのために、また、各家族の健康や仕事や経済などの祝福のために、子どもたちや青年たちのためにお祈りしています。また、教会の礼拝や働きのために、私たちの家族や友人・知人の救いのために、お祈りしています。連盟・連合の働きのためにもお祈りしています。自然災害被災者のために、また、世界の国々や世界の平和のためにもお祈りしています。

 祈りについて、もう少し掘り下げたいと思います。私たちは祈りによって神様とつながっていると言ってよいでしょう。神様とつながっている理由が、ただ神様が私の願い事をかなえてくださるから、と言うことだけだったら、神様との関係性があまりにも薄っぺらなものにすぎません。他のご利益宗教と大して変わらないのです。神様と私たちの関係性は、もっと、熱くて豊かなはずです。イエス・キリストは私たちを救うために十字架に架かって死んでくださいました。そのことを信じている私たちは罪赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられ、神の御国を相続する者にしてくださいました。そして、永遠の滅びから救われている身とされたわけです。いくら感謝しても感謝しきれません。祈りをとおして、私たちは日々そのことを喜び、感謝し、賛美するのです。それゆえに、祈りをとおして、神様への従順を意思表示するのです。私たちは、神様の前にへりくだらなければ、「神様」とか「天のお父様」と言って祈り始めることはできません。祈りは、私たちがへりくだる良い機会です。へりくだりの思いに私たちの心が満たされることは、健全な霊的な状態と言えますし、その状態は私たちに主にある平安と祝福をもたらしてくれます。

 さらに、祈りはただ私たちが神様に向かって語るだけのものではありません。神様に尋ね、神様に聞くのです。神様の私たちへのみ思いや導きを聞くのです。でも、そう簡単には神様のみ思いや導きがはっきりと分からないことも多々あります。しかし、神様に聞く姿勢は、私たちの信仰の歩みにはとても大切なことです。私たちが神に聞く姿勢を心がけるだけでも、私たちの人生の歩み方において神様の良き影響を受けるドアを開くことになります。私たちは、私たちの人生を、ただ自分の思いと力によって進んで行ってはなりません。そうではなくて、神様に祈り、神様に聞き、神様により頼み、神様にゆだね、神様に従う思いを持って、進んで行くのです。そうするならば、私たちは多くの良い実を結ぶことになります。その姿勢を自分の生き方とする者は、良き主の証し人として建て上げられて行きます。そのような歩みの中で、私たちは、神様のみこころにふれたり、神様の導きを受けたり、神様のみわざを経験して行くのです。それは、私たちにとって、貴重な霊的な糧になって行きます。このように、祈りは誰にとっても大変大切なことです。そして、人々を導く役割のある人は、神への祈りなくして、その役割を担い続けていくことはできません。

 12使徒が何よりも祈りを優先することの重要性を語っているのは、祈りなくしては神様のみ心をとらえ、それにそって人々を導いていくことができないからです。神様のみ心にそって人々を導いていくためには、祈りが大変重要だからです。信仰のリーダーたちにとって祈ることは欠かすことのできない日課なのです。祈りは私たちの霊的な部分や心の状態を整えてくれます。また、祈りをとおして私たちは導きを受け、その導きに導かれて行くことができます。さらに、礼拝で何をどのように語ればよいのかについても、祈りがなければ用意をすることはできません。祈りの中でメッセージは用意されるものです。

 祈りとみことばの奉仕の大切さについて、初代教会の時代だからこそ、他の時代とは異なる重要な理由がありました。この時には、まだ、新約聖書がありませんでした。私たちが手にしているこの新約聖書がなかったのです。あるのは旧約聖書だけでした。ですから、キリストが何のために十字架に架かったのかとか、救いとは何からの救いなのかとか、救いはユダヤ人だけのものなのか、それとも、異邦人のためでもあるのかとか、そのようなことが明確にまだわかっていない時期であったのです。ですから、その答えを旧約聖書のことばから見出す必要がありました。しかし、その作業は、人の能力だけでは無理なことでした。聖霊の導きと助けと力が必要だったのです。聖霊の導きと助けと力があって初めて、開かれることであったのです。使徒たちの祈りとみことばの奉仕があったからこそ、今このようにして、私たちは新約聖書を読むことが出来る、と言っても過言ではありません。新約聖書には、福音書を初め、パウロやペテロによる手紙がありますが、これらは、神からの啓示です。これらは、恍惚状態の中で受けたことではなくて、祈りとみことばの奉仕の中で受けたことが、聖霊の導きと旧約聖書によって吟味されたものが、こうして新約聖書として与えられているのです。

■3節~4節 12使徒たちは、自分たちが最優先としなければならない役割を自覚していました。その役割を果たすために、限られた自分たちの時間と労力を管理する必要がありました。しかし、また、教会に起こるいろいろな問題を放って置くことはできません。きちんと対応し、教会を管理する必要を理解していました。ですから、そのために彼らは、とても良い方法を選択しました。このようなやり方が旧約聖書にも出て来ます。覚えているでしょうか。出エジプト記18章にある出来事です。このところで、何十万人ものイスラエルの民の間で起こった問題をモーセ一人で裁いていました。それがモーセにとっても、イスラエルの民にとっても、大変疲労困憊させる原因となっていました。そんな様子を見たモーセのしゅうとイテロは、非常に優れた提案をしました。この提案は、まさに主からの導きであったと思います。モーセが担ってきた役割を他のリーダーたちにも負ってもらったのです。彼らは、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を選びました。それは、モーセにとっても、民にとっても、大きな祝福となりました。

 使徒の働き6章に見る出来事は、出エジプト記18章の場合と類似点があると思います。使徒たちも、新しくリーダーを選んで、使徒たちの重荷を担ってもらいました。ここでは、7人の新しいリーダーが選ばれ、その名前が列挙されています。たぶん、これら7人の下には、さらに、リーダーが決められたのではないでしょうか。この時一万人以上の信者はいたと思われますから、それだけのリーダーとなる人々が必要だったと思います。

■5節~7節 彼らは御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを選びました。その一人目が特に信仰と聖霊に満ちたステパノです。彼は、その信仰のゆえに殉教しました。彼が、初めての殉教者です。そして次に、エチオピアの宦官にバプテスマを授けたピりポです。他に、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキアの改宗者二コラオが選ばれました。 

 使徒たちは彼らに手を置いて祈りました。これら7人は千人の長のような人々であったかもしれません。彼らは、ただ、食糧の分配の仕事だけをやっていたのではありません。祈りもしました。みことばの学びもしました。伝道もしました。そして、12使徒の働きをサポートするために、食卓のことについても奉仕したのです。このように、教会はその使命を遂行するために最善の形へと整えられて行きました。12使徒以外に主の働きの核となる人々が選ばれました。彼らは信仰に満たされ、喜んで神に聞き従う人々であったと思います。そして、さらに働きが進んで行きました。弟子の数は非常に増えて、祭司たちさえも大勢が次々と信仰に入って行ったということなのです。律法学者やパリサイ人、そして、サドカイ人もイエス・キリストを信じたと言うことですが、そのような人々の中から、その後、律法主義や復活はないと言うような偽りの教えをもって教会に悪影響を与える者たちが出て来ます。使徒たちはそのような人々への対応も迫られることになるのです。このような戦いは、現代の教会にもある戦いです。その戦いに勝利して行くためにも、私たちは祈りとみことばの奉仕をおろそかにしてはなりません。そして、福音宣教の働きの手をゆるめてはならないのです。それではお祈りします。