イエス・キリスト以外には救いはない!

2024年5月5日主日礼拝「イエス・キリスト以外には救いはない!」

使徒の働き4:1~12 佐々木俊一牧師 

■前回の話で、ペテロとヨハネが3時頃、祈りのために神殿に行くと、神殿の入口にある美しの門のところで生まれつき足の不自由な男の人に出会いました。その男の人は施しを求めていたのですが、ペテロとヨハネは彼を見つめて、「金銀は私にはないが、私にある物をあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と命じました。すると、彼は立ち上がって歩き出し、賛美したり、飛び跳ねたりしながら、ペテロとヨハネと一緒に神殿の中へと入って行きました。そうしたら、周囲の人たちもそれに気づいて、歩けなかった男の人が歩いたり飛び跳ねたりしているものですから、驚いてたくさんの人たちが集まって来たのです。そこで、ペテロはイエス・キリストの十字架と復活のことを宣べ伝え、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じるように導きました。その結果どうなったのか、4章から見て行きたいと思います。

■1節~4節 ペテロの話を聞いていた人々のうち大勢が信じた、と書かれています。なんとその数が、男だけで5000人ほどになったと言うのです。ペンテコステの時には3000人が信じました。その時は男だけで、とは言われていないので、信じた3000人の中には女性や子どももいたかもしれません。しかし、この時は、男性だけで5000人です。女性も入れたら、さらに、子どもたちも入れたらもっと多くの人々が信じたことになります。このように、ペテロが2度の宣教だけで8000人以上の人が罪を悔い改めてイエスを救い主と信じました。まるで、リバイバルのような出来事が起こったのです。

  神殿の中では普段とは異なる出来事が起こっていました。その動きに気づいた祭司たちと宮の守衛長、そして、サドカイ人たちがその所に駆け付けました。彼らはその群衆の中でペテロとヨハネがイエスの十字架と復活について語っているのを見つけました。一緒に駆け付けたはサドカイ人たちは、死者の復活の話が大嫌いでした。彼らは死者の復活を信じていなかったのです。ですから、死者の復活を信じるパリサイ人たちと度々口論することがありました。サドカイ人たちは、ペテロとヨハネが死者の中から復活したイエスのことを宣べ伝えていたので、苛立ちました。そして、サドカイ人たちの主導のもと、次の日まで彼らを捕えて留置場に入れたのです。

■5節~11節 翌日、イスラエルの指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まりました。その中には、パリサイ人もサドカイ人も含まれていたでしょう。神殿を私物化し、金儲けをしていた大祭司アンナスとカヤパ、その親族であるヨハネやアレクサンドロス、そして、その他の大祭司の一族もみな出席しました。

 彼らは、ペテロとヨハネを真ん中に立たせて尋問を始めました。「お前たちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか。」それに対して、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに答えました。聖霊に満たされていましたから、聖霊によって与えられる知恵や導きがあったわけです。これについては、イエス様がすでに予告的な指導を弟子たちにしていたことが思い起こされます。ルカ21:12~15を見ると、イエスのみ名のために捕らえられて、王たちや総督たちの前に引き出されるようなことがあった場合、どう対応したらよいのかについて、イエス様は教えているのです。そのような時は、どう弁明したらよいのかをあらかじめ考えておく必要はなく、その時になれば、反対するどんな人も対抗したり反論したりできないほどのことばと知恵が与えられることを約束してくださっています。そのことばと知恵は、そのような時に聖霊が与えてくださるのです。それゆえに、ペテロは堂々と大胆に導かれるままに答えることができたのです。

 ペテロは告発者の質問の趣旨を明確にしながら、落ち着いて話し始めました。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒されたのかということのためなら、皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。」

ペテロは何も隠さず、ただありのまま、真実を語りました。別に大げさに言う必要もなければ、脚色する必要もありませんでした。ただ、事実をそのまま語るように導かれたのです。 

 一つ目の事実は、生まれつき足の不自由な男の人が施しを受けるために、いつも神殿の美しの門というところにいた、と言うことです。二つ目の事実は、その男の人の不自由だった足が治って歩けるようになった、と言うことです。三つ目の事実は、ナザレ人イエス・キリストの名によってこの男の人の足は癒されたのだ、と言うことです。さらに、ペテロは、現実であり、事実である事柄を彼らに突きつけました。「あなたたちが十字架につけ、殺したが、しかし、神様はその方を死からよみがえらせました。そのお方の名がこの男の人を癒したのだ」、とペテロは恐れることなく、はっきりと答えました。

 そして、次に、ペテロは詩篇118:22を引用して、イエスのことが明確な預言の成就であることを示しました。「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった、というのは、この方のことです、とペテロは言いました。

 「あなたがた家を建てる者」とは、イスラエルの家を導く責任のあるユダヤ教の指導者たちのことです。ユダヤ人の霊的指導者であるにもかかわらず、大祭司や祭司たち、そして、律法学者、サドカイ人たちやパリサイ人たちは、神が遣わされた救い主を、十字架に架け、殺しました。つまり、彼らは、神が送られた救い主を救い主として受け入れず、殺して、捨てたのです。彼らが捨てたイエス・キリストこそがイスラエルの要の石として死者の中から復活し、今も生きて働いておられるのです。そのことが前もって語られているのが、詩篇118:22なのだ、ということを、ペテロは彼らに語りました。

■12節 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間には与えられていないからです。」

 使徒の働きには、私たちクリスチャンが信仰者としてまっすぐ歩むために必要なスローガンとなるキャッチフレーズをいくつも見つけることが出来ます。3章には、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言うことばがありました。そして、今日は、4章に、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間には与えられていないからです。」があります。

 このようなことをはっきり言うと、必ず反対する者が出て来ます。ナザレ人イエス・キリストが救い主だ、と言うと、多くのユダヤ人は絶対に受け入れません。エルサレムに集まった宗教指導者たちは、ナザレ人イエスが救い主である、なんてことは絶対に受け入れませんでした。そもそも、大祭司や祭司、そして、サドカイ人たちというのは、裕福な上流階級の出身で、世俗的な人々でありました。彼らの関心は地上の富であって、神の国だとか救い主の到来だとか、そんなことには興味がない人々でした。とにかく、イエスの復活もペテロやヨハネのしていることも、彼らにとってはただの邪魔、彼らの地位を脅かすこと以外の何物でもないのです。

 どういう理由にしろ、「ナザレのイエス以外に、救いはない。私たちを救ってくれる名は、イエス・キリスト以外はない。」と言うならば、昔も今も、また、どこの国でも、必ず、反対する者がいるのです。ペテロは、反対されることをわかっていました。それは、イエス様からすでに聞いていたことです。たとえ、そうであっても、イエス様は恐れないで、心配しないで、語るように勧めています。何を語るかはすべて、聖霊が教えてくれます。このことを信じて、イエス様のことを語るのがイエス様の弟子です。イエス様のことを信じるだけの信者にとどまるのではなく、イエス様のことを伝える弟子になりましょう。ペテロは、救い主イエスの目撃者でしたから、そのことをどうしても言わなければならなかったのです。ペテロは、ペテロの第二の手紙の中でこのように言っています。「私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。」と言っているのです。

 十字架に架けられて死んだナザレ人イエス・キリストは、三日目に復活しました。その後、オリーブ山から天に昇って行かれました。しかし、同じ有様で、再びこの地上に戻って来られることを約束されました。将来、救い主イエス・キリストは再び戻って来られるのです。

 この地上においても、人々は、いろんな意味でイエス・キリストの救いを体験します。病のいやし、悩みからの救い、罪悪感や罪責感からの救い、悪習慣からの救い、困難からの救いなど、いろいろな事柄からの救いを体験します。しかし、何よりも重要なことは、永遠の滅びからの救いです。すべての人間は、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっています、と聖書にあります。キリストは、私たち人間をそのところから救い出してくださるお方です。キリストは、人の罪を負うために一度ご自分をささげ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々を救うために再び来られるのです、と聖書に書かれています。私たちが救われるために与えられている名は、ナザレ人イエス・キリスト以外には、だれも与えられていません。イエス・キリストの名のほかに、私たちが救われるべき名は人間には与えられていないのです。それが、聖書が言っていることです。それではお祈りします。